沖 縄
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県国頭郡大宜味村喜如嘉
- 特 徴:
- 糸芭蕉の繊維から糸をとって織った織物。
- 麻より繊維が軽く、かたく張りがあり、さらりとした風合いで通気性がよい。
- 模様はほとんどが絣柄である。
- 用 途:
- 着尺地、帯地、座布団地、ハンドバッグ、小物など。
- 変 遷:
- 糸芭蕉が繁茂していたため、奄美諸島から与那国島にかけては昔から芭蕉布がさかんに織られ、身分の上下なく晴着や普段着として着用されていた。
- 芭蕉布の起源は明らかではないが、一三七三年頃の明朝への入貢品目録の中に、芭蕉布のことと思われる「生熟夏布」の名があるので、十三、四世紀にはすでに織られていたものと考えられる。
- 芭蕉布は沖縄の代表的、かつ一般的な織物であった。慶長十四(一六〇九)年に薩摩藩が琉球に侵攻したのち、藩が琉球に対して課した貢租の中に「芭蕉布三千反」が含まれていたことからも、それがうかがえる。柄は当初、無地、縞、格子などが多かったが、明治二九年に仲原ナベが絣の芭蕉布を織りだしてから、絣柄が主流となった。
- 芭蕉布は沖縄の代表的な織物でありながらも、ほとんど県外に知られることなく生産され続けた織物である。明治時代には高機の導入や技術の向上により生産性が高まったが、需要はほぼ県内にとどまった。そして、第二次世界大戦後のアメリカ統治時代には、生産が途絶えさえした。
- 現在の芭蕉布は戦後、平良敏子さんにより復興されたものである。昭和三一年に結成された「喜如嘉芭蕉組合」は、さまざまな芭蕉布を発表、それにつれて芭蕉布は世に知られるようになり、昭和四九年には国の重用無形文化財に指定された。
- 染色法:
- *染料は、沖縄産の琉球藍(キツネノゴマ科)とテチカ(車輪梅)の二種類である。
- *糸芭蕉の繊維の色を地色として、紺と茶で絣模様を表す。
- *絣模様は経絣、緯絣、経緯絣、綾中の四種類がある。
- *絵図を用いず、絣柄にしたがって計算し、絣くくりを行い染色する。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県中頭郡読谷村
- 特 徴:
- 南国独特の花柄や幾何模様を浮織にした紋織物。
- 紺、白、赤、黄、緑の五色の色糸を用いる。文様の部分だけに色糸を織る技法を手花(ティバナ)織あるいは縫取り織といい、紋綜絖を用いて浮織にする技法を綜絖花(ヒヤイバナ)織という。
- 柄には、銭花(ジンバナ)、扇花(オージバナ)、風車(カジマヤー)をもとにした数種類の幾何模様の花柄、そして絣、縞、格子を組み合わせたものがある。
- 原糸は木綿糸がおもだが、芭蕉や麻絹の交織などもある。
- 糸は純植物染料で染める。
- 用 途:
- 着尺地、細帯、手巾(手拭いの一種)など。
- 変 遷
- ミャンマー、ジャワなどの南方から伝わった織物と考えられている。
- 五百五十年ほど前に琉球王朝の御用布に指定され、首里の貴族と読谷の人々だけが着用を許された。それ以外の一般庶民の着用は禁じられていた。明治時代まで織られていたが、明治末期から昭和にかけて生産が途絶えた。
- 昭和三十九年に役場の指導で復活、伝統工芸品として年々、活気を増している。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県島尻郡仲里村(久米島)
- 特 徴:
- 手紡ぎ紬糸を植物染料と泥媒染で染め、高機で手織したあと砧打ちした高級絹織物。
- 独特な深い色調をもち、地風はしっとりとしている。
- 用 途:
- 着尺地。
- 変 遷:
- 古くから南方諸国との交易がさかんだった沖縄には、十四、五世紀にはインド系の絣技法が伝わっていたと思われる。また同じ頃、沖縄諸島の中でも桑の成育のよい久米島では養蚕が行われ、絹織物が織られていたと思われる。これらの条件から生まれた沖縄独特のチュサラ(清い、涼しい、美しい)感覚の絣織物は、やがて久米島紬に発展した。久米島紬は本土各地の絣織物に影響を与えたもっとも古い絣織物といえる。
- 久米島紬の起源は、十五世紀半ばに、堂之比屋が明国から養蚕、糸紡ぎ法をもち帰ったことに始まる。その後、一六一九年に王命により、越前の坂元普基入道宗味が久米島に桑の栽培、養蚕、真綿の製法などの技術を伝え、一六三二年には薩摩藩士、酒匂与四郎右衛門が八丈島の泥染技法を伝授、久米島絣は多くの技術を導入して、第一級の織物となった。一六〇九年に薩摩藩が沖縄に侵攻してからは、久米島紬は人頭税の貢納布に指定され、薩摩を経て江戸に送られて「琉球紬」の名で珍重された。また、王家御用紬には、絣柄図案帳「御絵図帳」の規格が厳格に守られ、用いられたので、久米島紬の技術は向上、洗練されて、すこしの乱れも傷もない、精巧で端正な織物となった。
- 染色法:
- 島の山野に生い茂る植物を染料とする。グール(サルトリイバラ)、テチカ(車輪梅、テーチキ)、クルボー(ホルトノキ)、楊梅、ユウナ(オオハマボウ)などを染料とし、五色の基本色を染める。
- *焦茶 グールとテチカで染め、泥染する。
- *黄 クルボーと楊梅で染め、みょうばんで媒染する。
- *赤茶 グールとテチカで染め、みょうばんで媒染する。
- *うぐいす クルボーと楊梅で染め、泥染する。
- *ねずみ ユウナで染め、グジル(豆汁)で媒染する。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県島尻郡南風原町、那覇市
- 特 徴:
- 泥藍染の絣柄木綿織物。
- 健康的な美しさと、南国の陽光にも退色しない強さをもった織物。絣柄には、生活用具、あるいは星、雲、鳥などの自然を図案化したものが多い。
- 沖縄では、各地域の絣柄織物を総称して琉球絣ということもある。
- 用 途:
- 着尺地。
- 変 遷:
- 沖縄の絣織の起源は明らかではなく、南方渡来説(ジャワ、スマトラなどの南方諸国から伝わったとする説)と中国渡来説がある。
- いずれにしても、沖縄では十四世紀には芭蕉布に絣柄が織られ、その後、沖縄の風土と生活の中で独自の発展を遂げていった。そして、薩摩藩の侵攻により沖縄の絣織が九州へと伝えられ、やがて日本全国の織物に影響を与えたのである。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県那覇市首里汀良町
- 特 徴:
- 経糸を浮かせて織る紋織の一種。絹物と綿物がある。
- 経糸に二色の色糸を用いる。裏表とも経糸のみが浮く、両面使える織物。純植物染料で染めた糸を高機で織り、独特の砧打ちの技法で仕上げる。
- 用 途:
- 士族階級以上の人々の着尺地。
- 変 遷:
- 一六五九年に中国から紋織の技法が伝えられて以来、長い時間をかけて沖縄独自の織物となり、宮廷の衣装や王府の官服として用いられた。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県那覇市首里当之蔵
- 特 徴:
- 格子縞に琉球絣を配した絹織物。
- 一反に五〜七色の糸と、紅白あるいは紺白の二色をより合わせた糸(ムディー)を経緯に織り込む。紅白のムディーのある手縞は祝着用、紺白のものは日常用あるいは法事用として用いられた。
- 絣部分の色によって白玉(絣部分を白抜きしたもの)、黒玉(白地に色絣のもの)、色玉(色地に色彩絣のもの)の三種類がある。また、特殊なものとして藍の生葉染手縞もある(「首里生藍手縞」参照)。
- 用 途:
- 琉球王朝時代の、王族または上流士族階級の女性の着尺地。
- 変 遷:
- 十五世紀に尚氏が沖縄全島を統一すると、首里が琉球王朝の首都となり沖縄染色の中心地となった。
- 琉球王朝は中国、朝鮮、日本を始め、シャムやジャワなどの南方諸国ともさかんに交易を行ったので、王候貴族などの衣装には外国文化の影響が色濃く現れた。そうした輸入文化は、やがて沖縄独自の文化と融合して新しい染織文化を生みだしていった。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県那覇市首里
- 特 徴:
- 原始的な染色法で糸を染めた絹織物。琉球藍を発酵させずに生葉で糸を染める。
- 絣入り格子柄を絽や紗に織る。
- 変 遷:
- 起源は明らかではないが、首里に古くから伝わる染色法である。
- 藍の発酵建てが行われるようになったのが奈良時代の頃とされるので、それ以前の技法が現在でも活かされていることになる。
- 染色法:
- *鉄鍋に張った五、六十度のお湯に藍の生葉を漬けて、色素を抽出する。
- *溶液が冴えた淡藍色になったら葉をとり出す。
- *この染液に糸を浸し、絞って風を入れる。
- *この工程を十四、五回繰り返し、好みの色調に染める。
- *絣くくりをして植物染料で染める。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県平良市
- 特 徴:
- 苧麻の手紡ぎ糸で織った麻織物。沖縄特産の泥藍で染織し、手織、砧打ちした上質の麻織物。
- 極細糸で織られているので、軽く堅牢で臘をひいたようななめらかさと光沢がある。精緻な絣模様が特徴的。そのため、一反を仕上げるのに二か月の時間を要する。
- 夏の着尺地として東の越後上布、西の宮古上布といわれる最高級品。
- 用 途:
- 夏の高級着尺地。
- 変 遷:
- 李氏朝鮮の正史である「李朝実録」の中に、一四七九年に宮古島で麻布が織られていたという記述がある。しかし、精巧な上布が織られ始めたのは一五八三年のことで、この年、琉球王朝から功績を認められて栄進した栄河氏下地真栄の妻、稲石が綾錆布を織り、王に献上したことに始まる。こののち、宮古上布は王朝御用布となり、色上布も織られるようになった。
- 宮古上布は、薩摩藩の侵略(一六〇九)をきっかけにして全国に広まった織物である。万治元(一六五九)年に薩摩藩は住民に人頭税をかけ、人頭税を支払う手段として宮古上布を貢納布に指定した。徴収された宮古上布は薩摩上布として江戸などに送られ、全国に知られるようになった。ただし、このころから色上布は減って、紺絣上布が主流となった。人頭税の開始により、精緻な織物が織られるようにはなったが、村役人の監視のもとで織物生産を強要された住民たちの生活は悲惨なものだったという。人頭税制は明治三六年まで続けられた。
- また、明治八年には宮古上布はアメリカの博覧会に出品されている。
- 第二次世界大戦により宮古上布の生産は一時中断されたが、昭和二三年には再興され、手績み、正藍染、手織を条件とする重要無形文化財に指定された。
*人頭税 住民の頭数に課せられる税金。宮古上布のばあいは、十五歳から五十歳までの女性にかけられた。病人、不具者などの例外なくかけられたので、働けない家人をかかえた家はとくに納税に苦しんだ。近年の人頭税としては一九八九年に開始されたイギリスの「ポル・タックス」の例があるが、立法後も民衆の大反対にあい、わずか二年のうちに廃止となった。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県八重山郡竹富町、石垣市
- 特 徴:
- 手績みの麻糸を紅露(ヤマノイモ科)の摺込捺染法で絣柄に染め、独特の高機で織った麻織物。海晒しで仕上げるのが特徴。
- 茶染の白絣、藍染の白絣、紺縞細上布、赤縞上布などがある。細い糸で織られ、軽いものほど上等とされる。
- 用 途:
- 夏の着尺地。
- 変 遷:
- 起源は明らかではないが、人頭税(一六三七年開始)の貢納布の中に八重山上布の名があるので、それ以前から織られていたことは確かである。八重山上布のうちでも茶絣は、薩摩藩を通して「薩摩白絣」「錆絣」の名でとくに日本国内に知られていた。
- 八重山上布のかつての製法は、織りあがった上布を天日乾燥し、海水に浸して色止めを行う「海晒し」で仕上げるというものだった。野外でダイナミックに行う作業だったためか、これらの布織に関する歌がいまでも二十数曲残っているという。
- 明治三六年、人頭税の廃止により八重山上布は大きく発展したが、第二次世界大戦で衰退した。沖縄の本土復帰後、島の若者たちが伝統技術の保護のために活発な活動を続けている。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県八重山郡竹富町
- 特 徴:
- 幅およそ八・五センチ、長さ約二三〇センチの細帯(ミンサー)で、真田紐に似た経畝織の木綿織物。藍染の紺地の両耳にはムカデ模様と呼ばれる段々縞が織りだされ、その中に五つ玉と四つ玉の絣が交互に織り込まれている。
- 用 途:
- 腰帯、ネクタイ地など。
- 変 遷:
- 起源は明らかではないが、このミンサーには、八重山地方に遅くまで残っていた通い婚にまつわる逸話がある。
- 通い婚が行われていた当時、女性は相手の男性に「いつ世までも(五つ四つの絣文)」との愛情を込めてこの細帯を贈ったという。また、細帯にほどこされた二本の縦筋には「道を踏みはずして浮気などすることなく」という意味が、ムカデ模様といわれる帯の両耳についた横段縞には「足繁く通ってほしい」という願いが込められているという。
- 現在は、藍染のミンサー(細帯)ばかりでなく、多彩な帯やテーブルセンター、袋物などもつくられている。
- 染色法:
- 竹富みんさーの中でも小浜島で織られているものを、その染料から、とくに「木藍染ミンサー」という。木藍はかつて小浜島に群生していたインド藍とも呼ばれる植物である。現在は栽培したインド藍で染められる。木藍染の工程は次の通り。
- *石灰を多く含んだ水と木藍の葉だけを藍瓶に入れる。
- *四、五日で発酵するので、発酵したら上ずみをとる。藍瓶の中に沈殿した藍は、別の瓶に移す。
- *この沈殿藍をさらに発酵させ、その中に糸を浸して染色する。
*おり*
- 産 地:
- 沖縄県八重山郡与那国町
- 特 徴:
- 白地に色糸(紺、赤、茶、黄、黒など)で九本の太い横段を織り込んだ紋織物の一種。布の表裏両面とも同じ市松模様になる花織手巾。
- 用 途:
- 手巾(手拭いの一種)。
- 変 遷:
- 与那国島は他島との交渉の少ない孤島だったため、沖縄に多い絣織はなく、他島には見られない独特の縞物が発達した。
- 花織手巾は、親兄弟の航海や道中の安全を祈願する「情けの手巾(ナサキのテサージ)」として、また意中の若者へ思いの丈を伝える「思いの手巾(ウムイのテサージ)」として織られた。また、女性の肩や髪にかける装飾用としても用いられた。
- 板花手織手巾は、かつては麻糸や芭蕉布で織られていたが、現在は綿糸で織られている。
*そめ*
- 産 地:
- 沖縄県那覇市、島尻郡玉城村、豊見城村
- 特 徴:
- 南国情緒豊かな華やかな色彩で花鳥風月の文様が多い。
- 各種顔料と数種の植物染料を用いる多彩な模様染を紅型、藍の濃淡染を藍型という。また、型紙染と筒描染がある。
- 用 途:
- 女物の着尺地、羽尺地、帯地、暖簾、壁掛け、テーブルクロス、風呂敷、袋物など。
- 変 遷:
- 起源は明らかではないが、十五世紀頃と推察されている。中国から伝わった摺込手法の型付け「浦添型」と、日本本土の染色法やデザインに影響をうけて完成したといわれる。
- 紅型は、琉球王朝の支配階級の衣料、あるいは交易品として扱われてきた染物だったため、その技法は紅型御三家といわれる宮廷御用形付師の一族の世襲によって今日までうけ継がれてきた。ちなみに紅型御三家とは沢岻、知念、城間である。
- 琉球王朝時代には、その着用すべき生地の地色、文様は身分ごとに明確に区別されていた。
- 紋様は、王候用が「御殿型」、上級士族用は「殿内型」、士族用は「首里型」、上級士族の師弟用は「若衆型」、子供用は「がんじ型」であった。「那覇型」、「泊型」は庶民用あるいは貿易用だった。
- また、王候貴族は白地か薄黄地に絵画的な柄や多彩色の大柄がほどこされた縮緬か綸子の生地を、庶民は朧型(五色…色朧、藍と黒…藍朧)の木綿地を着用した。
- 日本へは元禄年間(一六八八〜一七〇四)の頃に輸入され珍重されたが、明治一二年に琉球王朝が廃されてからは生産量が激減し、第二次世界大戦により一時途絶えた。
- 戦後、復興し現在に至っている。
- 染色法:
- 植物染料として琉球藍、福木、蘇芳、楊梅などを、顔料として腥臙脂朱、石黄、墨、胡粉などを用いる。色止めのために顔料は豆汁で溶き、染料にはみょうばんを混ぜる。顔料で下塗りをしてから、染料を重ね塗りする。
- ●技法の種類
- *白地型 一回の糊置きで模様にだけ彩色し、地は白く残す。
- *染地型 一回の糊置きで模様の彩色と地染をする。
- *返し型 白地型で一度染めてから、文様を糊伏せして地色を染める。
- *朧型 染地型と白地型を用いて地色に地紋を表す。ほかの紅型には型紙を一枚しか用いないが、朧型には二枚の型紙を用いる。
- *段染地型 地色を上下に大きく挿し分けたもの。
- *忍摺型 染色後に隈とり(ぼかし)と手描をほどこす。
- *手付紅型 水洗い後、白場に彩色を加える。
- ●藍型の種類
- *白地藍型 白地に藍一色の模様。
- *浅地花取り 白地に藍の濃淡模様。
- *墨花出し 薄藍地に濃紺模様。
- *白花出し 藍地に白抜き模様。
- *藍朧 白地型と染地型を用いて藍で二重染したもの。
- *染地藍型 模様部分に墨でぼかしを入れたもの。
- *紅入藍型 藍型の部分に赤、黄、青などの多少の色を挿したもの。