近畿地方
*おり*
- 産 地:
- 三重県多気郡明和町
- 特 徴:
- 地元の農家が栽培する地藍で糸を染めた綿織物。
- 用 途:
- 着尺地、夜具地。
- 変 遷:
- この地方では、天正、文禄年間(一五七三〜一五九二、一五九二〜一五九六)にはすでに、農家の副業として、木綿(縞木綿、紺木綿、白木綿)や綿麻の交織織物がさかんに織られていた。
- これらの織物は伊勢商人の手で江戸へ送られ、天和年間(一六八一〜一六八四)から元禄年間(一六八八〜一七〇四)にかけて、良質の木綿織物として名を知られるようになった。
- 明治中期に専業化が進み、昭和一〇年頃には動力機械が導入されて現在に至っているが、生産量は減っている。
*おり*
- 産 地:
- 奈良県大和高田市
- 特 徴:
- 板締め染色法により、白地に紺絣柄を織りだした木綿織物。
- 型染のようなきちんとした絣柄。
- 用 途:
- おもに男性用着尺地。
- 変 遷:
- 江戸時代の宝暦年間(一七五一〜一七六四)頃、浅田操が越後上布の紺絣を木綿に織りだしたのが始まりといわれる。その後、工夫改良が加えられ白地に紺色模様の白絣となった。
- 明治時代まではさかんに生産されたが、最近は衰退し、生産が途絶えている。
- 中野白絣と並ぶものである。
*おり*
- 産 地:
- 奈良県奈良市
- 特 徴:
- 麻の白生地(生平)を天日で晒し、自然漂白をする。
- 用 途:
- 着尺地、帯地、肌着、寺社用衣料、茶巾、暖簾など。
- 変 遷:
- 昔、晒布のことを曝布といった。曝布の歴史は古く、奈良時代にはすでにあったという。
- 奈良地方で奈良曝が生産されるようになったのは江戸時代初期の慶長年間(一五九六〜一六一五)のことである。寛永年間(一六二四〜一六四四)の頃から、幕府の御用晒として、また礼服として需要が伸びた。
- 奈良晒の原料は苧麻だが、青苧は会津、越後から、生平は近江、伊賀から買って、奈良で晒して奈良晒として諸国に送った。
- 現在では、糸は苧麻の手紡ぎ糸からラミー糸に変わり、生産量も少なくなっている。
*おり*
- 産 地:
- 大阪府堺市
- 特 徴:
- 木綿製で手織の紋様敷物。
- 用 途:
- 敷物。
- 変 遷:
- 天保二(一八三一)年頃、堺の町人が鍋島緞通と中国製の敷物を模倣して織りだしたのが、堺緞通の始まりだという。
- 明治時代になると織機(竪機)が改善されて大幅緞通が織りだされた。明治三〇年頃には、製品の多くは外国への輸出用となった。
- 第二次大戦後、手織緞通は機械織になり、現在は羽毛緯に羊毛を用いて織られている。
*そめ*
- 産 地:
- 滋賀県長浜市
- 特 徴:
- 絹糸の使用量が多い織物で、とくに一越縮緬は最高級品である。
- 浜縮緬とは、長浜縮緬を略した名称である。
- 用 途:
- 染下生地。
- 変 遷:
- 長浜地方では、奈良時代の和銅五(七一二)年にすでに上質の綾絹が織られていたという記録がある。
- 長浜縮緬が生産されるようになったのは江戸時代の宝暦年間(一七五一〜一七六四)で、中村林助、乾庄九郎の努力によって丹後の縮緬技術が導入され、長浜縮緬が完成した。その後、彦根藩の保護のもとに発展し、安政年間(一八五四〜一八六〇)には、さまざまな縮緬が織りだされ、生産量も増加した。
- 明治四年の廃藩置県により一時衰退したが、その後の縮緬の流行や大正初期の力織機の導入などにより盛り返した。
- 高級染下生地の産地として、また丹後とならぶ縮緬の二大産地として現在に至っている。
*おり*
- 産 地:
- 滋賀県愛知郡愛知川町、秦荘町
- 特 徴:
- 縮仕上げのきめこまかな風合いと独特の絣模様をもち、清涼感のある上等な麻織物。
- 琵琶湖の水で麻を晒して染色し、平織する。
- 用 途:
- 夏の着尺地。
- 変 遷:
- 高宮地方(現在の彦根市近辺)は古くから大麻栽培のさかんな地域で、室町時代には高宮布として献上品、土産物に用いられていた。
- 江戸時代になると、彦根藩が近江麻布の品質の向上にのりだし、天明年間(一七八一〜一七八九)に近江麻布改役所を設けた。幕末には板締め絣が織りだされて、この地方は麻織物の一大産地としての名を高めた。伝統的に手紡ぎ糸が使われていたが、明治一〇年頃、亜麻紡績糸に変わり、明治末にはラミー糸に変わって、現在に至っている。
*おり*
- 産 地:
- 滋賀県
- 特 徴:
- 紡ぎ直した糸や、羽毛を緯ととして用いた再生織物。
- 用 途:
- 帯地。
- 変 遷:
- 今から四百五十年ほど前から織られている伝統的織物。
- 琵琶湖で使われた魚網(絹、麻、綿など)や水鳥の羽毛などを紡ぎ直して緯糸とし、手機で織る。
- 千利休が「侘」「寂」の極致として絶賛したといわれる。
-
*おり*
- 産 地:
- 滋賀県野洲郡野洲町
- 特 徴:
- 正藍で染めた綿糸で織った木綿織物。
- 変 遷:
- この地方の農家は、自家用の衣料を織るため綿を栽培していた。自ら紡ぎ紺屋に染めてもらった糸で木綿を織っていたが、昭和二三年頃を境に衣生活が変化し、藍染木綿の需要が少なくなって、現在では一機業が伝統を維持するのみである。
- 昭和三三年に無形文化財に指定されている。
- 染色法:
- 藍は木桶に入れ、初夏の気温を利用して自然発酵させ、染色する。人工加熱は行わない。
- この方法は、宮城県の「栗駒正藍染」に伝承されているものと同じである。
*そめ*
- 産 地:
- 京都府与謝郡加悦町、中郡峰山町ほか
- 特 徴:
- 生糸を経糸に、強撚糸を緯糸に用いて平織し、そのあと精練してしぼを出した高級絹織物。
- 一越縮緬、二越縮緬、古代縮緬、鬼しぼ縮緬、縫い取り縮緬、紋意匠縮緬、絽縮緬など多くの種類が織られている。しぼ立ちの大小などにより名称が変化する。
- 用 途:
- 染下生地。
- 変 遷:
- 丹後縮緬の歴史は二百五十年、丹後地方の織物の歴史は千二百年ほどである。それ以前の大和朝廷の頃に、中国大陸から渡来した人々がこの地に住み、織物をつくり始めたのが丹後地方の織物の始まりだとする説もある。また、この地方は室町時代(一五七三〜一五九二)には精好織で知られていた。
- 縮緬の技法は天正年間(一七一六〜一七三六)に中国から堺に渡来し、西陣に伝えられた。
- 丹後地方の縮緬織の始まりは、江戸時代の享保年間(一七一六〜一七三六)である。峰山の絹屋左平治、加悦谷の小右衛門、三河村の佐兵衛の三人がそれぞれ西陣から縮緬の技術をもち帰り、縮緬織が広まったのである。
- 気候が縮緬織に適していたことから、その後丹後地方は、日本一の縮緬産地に発展した。
*おり*
- 産 地:
- 京都府宮津市
- 特 徴:
- 藤蔓の繊維を手機で織った素朴な布。
- 麻織物に似ているが、麻より繊維が太く、目が粗い。
- 用 途:
- 作業着、蒸し布、畳縁、袋物。
- 変 遷:
- 万葉時代から織られているという古代織物。
- 明治時代までは各地で織られていたが、現在は当地のほか、山形県の山村など数か所で織られているだけである。
*おり*
- 産 地:
- 京都府京都市上京区
- 特 徴:
- 応仁の乱(一四六七〜一四七七)のときに西軍の陣所があった辺りから生産される織物なので、西陣織の名称がある。
- 多種多様の織物があり、織り方の種類は百五十種類を超えるというが、大別すると紋織と綴織に分けられる。
- 帯地については日本三大産地のひとつに数えられる。
- 用 途:
- 帯地、着尺地、金襴、緞帳、ネクタイ地、ビロード、ショール、服地などの広幅物、インテリア用織物、美術織物など。
- 変 遷:
- 西陣織の歴史は五百年程度だが、この地方の絹織物の歴史は古く、波乱万丈である。
- 五、六世紀の頃、朝鮮から千人ほどの人々をつれて日本に渡来した秦氏が養蚕を行い、絹物を織り始めたのが、この地域の織物の起源である。延暦十三(七九四)年、都が平安京に移され宮廷御用の織部司が京都に置かれると、天皇家、貴族、官僚たちの衣服を織る機業地として栄えた。この頃、羅、紗、綾、錦、穀などのすぐれた織物が生産された。
- 室町時代には、応仁の乱のために京都は戦場となった。この間、職工たちは奈良、堺へと逃れていたが、戦乱が収まると京都へ戻って西陣付近に職工集団をつくって機織りを再開した。その後、足利将軍の保護などもあり西陣機業は発展し、西陣織の基礎となった。
- 安土桃山時代(一五六八〜一六〇〇)には豊臣秀吉の保護や中国との交易により金襴、緞子、繻子などの織技法を習得、多くの織物がさかんに生産された。
- 江戸時代の享保十五(一七三〇)年と天明八(一七八八)年の大火により、機業は一時全滅した。しかしその後復活し、新技術の開発、品質の向上に努め、また豊かになった町人層に支えられて高級織物の産地として大きく発展した。
- 明治時代にフランスからジャガード織機が導入されてからはますます発展し、わが国を代表する絹織物生産地となって現在に至っている。
*そめ*
- 産 地:
- 京都府京都市
- 特 徴:
- 手絞の鹿子絞で、絞染の最高級品。
- 模様が、子鹿の背の白い斑点に似ていることからこの名がある。
- 変 遷:
- 絞染は中国から渡来したといわれる歴史のある技法で、天平の三纈(頬纈、纐纈、臈纈)のうちの纐纈が源流である。飛鳥時代(五九二〜七一〇)の遺物の絞染布が法隆寺に、奈良時代(七一〇〜七八四)の遺物が正倉院に見られる。
- 時代を経て、絞染は室町時代末期に辻が花染を生みだし、江戸時代には全盛期を迎えた。精巧な疋田鹿子が生まれ、着尺地だけでなく帯、襦袢などに広く用いられるようになった。江戸幕府は、総鹿子の華美贅沢さを理由に何度も奢侈禁止令を出したが、生産は途絶えず現在に至っている。
- 帯揚げに鹿子絞が用いられるようになったのは戦後である。
- 現在は人手不足のため、絞くくりの大部分は韓国で行われている。
- 染色法:
- *型紙を白生地にあて、青花(ムラサキツユクサの花汁)を用いて点や線で下絵を描く。
- *絞る部分をひとつひとつ針でつまみ、絹糸で数回巻いて絞る。(布をつまむ分量、糸の巻数によって疋田鹿子、京極鹿子、一目絞などに分かれる)。
- *絞り目は、布一尺幅に四十五粒から七十粒がふつうである。兵庫帯一本については八千から九千粒、総絞着尺ならば一反に二十五万粒も絞られる。
- *染色は浸染で行い、乾燥後、糸とき、湯のしをして仕上げる。
*そめ*
- 産 地:
- 京都府京都市
- 特 徴:
- 多彩で華麗な絵画的な文様染で、手描友禅、本友禅ともいわれる。糊置防染法による文様染のひとつで、染の着物の代表格。振袖、留袖、訪問着などに用いられる。
- 「糸目」の名称は、染めあがったときに模様の輪郭が白く残り、それが糸を引いたように見えるところからきている。
- 変 遷:
- 京都では古くから麻の漂白や植物染などが行われていたが、染色技術が飛躍的に発達したのは、奈良時代に中国や朝鮮との交流が深まってからである。
- 友禅染の源は、天平の三纈(頬纈、纐纈、臈纈)のうちの臈纈(ロウケツ)染だといわれる。
- 「ロウケツ」はインドで起こり、中国経由で日本に伝えられたという。奈良時代には、溶かした蜜蝋を布に押しつけて防染し、染色を終えたあとで蝋をとり除き仕上げたようである。
- ロウケツ染自体は、その後、平安時代には途絶えてしまったが、室町時代末期に和更紗が生産されると、ロウ防染法による紋様染が復活した。また、江戸時代の寛永年間(一六二四〜一六四四)の頃には楊子糊や筒糊を用いた茶屋染(四季の風物を藍一色で染めたもの)が生産されるようになった。
- 友禅染は元禄年間(一六八八〜一七〇四)に京都の扇面絵師、宮崎友禅斎によって創始されたといわれる自由な紋様表現の多彩色模様染で、友禅染には奈良時代の臈纈染、室町時代の更紗染、辻が花染、江戸時代の茶屋染などの染色技術がとり入れられている。
- 絹だけではなく木綿にも染められ大衆化して、友禅染は流行した。
- 染色法:
- 糸目友禅の工程は次の通りである。
- *意匠(図案)の作成。
- *地のし 白生地の布目を整える。
- *墨打ち 鋏を入れる部分や、袖山、肩山となる部分に墨で印をつける。
- *仮絵羽 仮仕立てをする。
- *下絵 青花(ムラサキツユクサの花汁)で下絵を描く。
- *伸子張り 仮仕立てをとき、伸子を張って布地をぴんと張る。
- *糸目糊 下絵の模様の輪郭に糸目糊(防染糊)を筒引きする。
- *地入れ 染料のつきがよくなるように、豆汁を塗る。
- *挿友禅 模様の部分に筆や刷毛で染料を塗る。
- *蒸し 蒸し箱に入れ、高温で蒸し染料を定着させる。
- *伏糊 地染の防染のため、染色した模様のうえに糊を置く。
- *地染 大刷毛に染料を含ませ引染し、もう一度蒸す。
- *水洗い 防染糊を洗い落とす。
- *湯のし 生地のしわをとり、幅を整える。
- *印金、刺繍 金箔や刺繍で装飾する。
- *上げ絵羽 仮仕立てをし、模様がよくわかるようにして完成させる。
*そめ*
- 産 地:
- 京都府京都市
- 特 徴:
- 型紙と写糊を用いた友禅染で、型紙友禅染の略。板場友禅ともいう。
- 糸目(手描)友禅と異なり、糸目がない。
- 大量生産ができるため手描友禅より価格が安く、着尺地、長襦袢地、七五三の祝着、羽裏地など用途が広い。
- 変 遷:
- 型友禅の完成は明治一三、四年頃といわれる。この頃、京都の堀川新三郎が開発したモスリンを写糊で染める方法を、挿友禅の名人であった広瀬治助が絹に応用し、型友禅は完成した。
- 型友禅の完成により友禅の低価格化が実現、それまで手描友禅が中心で一部の人々にしか手が出なかった友禅染が、庶民のものとなった。
- 現在、型友禅は友禅染の生産量の大部分を占めている。
- 染色法:
- *模様を彫った型紙を白生地のうえに置く。
- *化学染料と糊を混ぜた写糊(色糊)をへらで白生地に塗り込む。
- *蒸して、白生地に染料を浸透させてから、水洗いをして糊を落とす。
- *色数と同じ数の型紙が必要なので、多彩なものには数十枚の型紙を用いる。百枚を超すばあいもあるという。
*おり*
- 産 地:
- 兵庫県氷上郡青垣町
- 特 徴:
- 手紡ぎ、手機による木綿織物。手紡ぎの木綿糸が用いられるが、緯糸のところどころに屑繭から手紡ぎした「つまみ糸」が混ぜられる。
- 植物染をするが、色は藍、茶、緑の三色のみ。この三色の濃淡で縞柄や格子柄を表す。
- ほかの木綿織物とは違う、ざっくりとした風合いと美しさがある。
- 用 途:
- 農民の衣料、夜具地。畿内の茶人の仕覆としても珍重された。
- 変 遷:
- 江戸時代末期から明治中期にかけて、縞貫木綿、あるいは佐治木綿と呼ばれてさかんに織られていたが、大正年間には途絶えた。
- 昭和初期に民芸家の柳宗悦氏が京都の朝市で佐治木綿を発見し、丹波布と名づけた。
- 昭和二九年に柳宗悦、上村六郎氏を始めとする地元保存会の努力により復元され、現在もその技術は保存されている。