北陸地方


山辺里織(さべりおり)

*おり*


産 地:
新潟県村上市山辺里
特 徴:
さわやかで、しゃっきりとした風合いの織物で、おもに男性用の絹袴地として用いられる。平織、綾織、絽織があり、紺地に茶、またはねずみ色の縦縞が多い。
用 途:
男性用袴地、サイフ等の小物類。
変 遷:
文化年間(一八〇四〜一八一八)から織られている。村上平ともいう。糸づかいは、本練と半練の二種類がある。

山北科布(さんぼくしなぬの)

*おり*


産 地:
新潟県岩船郡山北町
特 徴:
科の木の樹皮繊維で織った布。染料による染色はせず、科の木本来の色のまま織りあげるので、黄褐色をしている。木綿、麻よりも古い織物。かたくゴワゴワしているが、しなやかで強くさらりとした感じがある。
用 途:
仕事着、肌着、蚊帳、荷縄など。
変 遷:
科布の歴史は古く、一千年以上も昔から日本各地で自家用として織られていた。しかし明治維新後、近代化が進むにつれて姿を消し、現在では二、三か所の山里でひっそりと織り続けられている。
樹皮の糸である科糸は動力機械で織ることができないので、居座機で手織で織る。

五泉平(ごせんひら)

*おり*


産 地:
新潟県五泉市
特 徴:
植物染の絹袴地。色合いが深くなめらかで、しっかりとした光沢をもつ。黒、茶、灰色などに染め分ける。
用 途:
袴地。
変 遷:
五泉の絹織物の起源は、およそ二百五十年前に織られていた葛織という袴地にもとめられる。五泉平は、その葛織に改良を加えて天明年間(一七八一〜一七八九)に完成されたものとも、また仙台平に独自の工夫をこらして完成されたものともいわれている。
五泉平の技法は以後、多くの織物におよび、天保年間(一八三一〜一八四四)には竜門、斜子の白生地が、明治初期には絽、八ツ橋が、そして明治二〇年頃には羽二重が生産された。
現在、伝統的な五泉平を織っているのは、わずか一機業場だけである。

加茂木綿(かももめん)

*おり*


産 地:
新潟県加茂市
特 徴:
素朴な風合いが特徴の、堅牢な木綿織物。
着尺には経縞、夜具地には格子縞や緯縞が多く用いられる。
用 途:
農作業着、作業着、手袋、民芸品など。
変 遷:
発生は江戸時代、全盛期は大正末期であった。
明治二二年に紡績糸が輸入されると紡績糸を経糸に、和糸を緯糸に用いた縞木綿が織られ、これがのちに加茂縞と呼ばれるようになった。
現在は、化合繊維織物および絹織物が主軸となり、加茂縞などの木綿織物はわずかになっている。

片貝木綿(かたがいもめん)

*おり*


産 地:
新潟県小千谷市
特 徴:
素朴な風合いが特徴の木綿織物。洗っても地風が変わらない。
紡績糸を中心に、一部に手紡ぎ糸を用いて織る。
用 途:
作業着地、夜具地。
変 遷:
現在の小千谷市片貝町付近では、古くから綿花の栽培が行われていた。綿花を「ぶんぶん」と呼ばれる手紡ぎのための道具で糸にし、縞木綿や紺無地木綿を織っていたのである。また、白木綿も織られ、伊勢型で型付けをしてから藍染がなされていた。
最近では、松煙染や紅柄も工夫されている。

越後上布・小千谷縮(えちごじょうふ、おぢやちぢみ)

*おり*


産 地:
新潟県小千谷市
特 徴:
重要無形文化財指定の麻織物。越後縮ともいう。
苧麻を手績みした糸を使い、伝統的技法で織られる。すなわち、絣模様をつけるときには手くびりにより染め、居座機で織り、湯もみ、足踏みでしぼとりをし、雪晒しをするのである。また、原料の苧麻には福島県昭和村で栽培されたものを用いる。
用 途:
夏の着尺地、夏座布団地、夜具地。
変 遷:
麻織物の歴史は古く、縄文時代には大麻で麻織物が織られていた。越後の麻織物も早くから文献に登場し、天平勝宝年間(七四九〜七五七)に越後で織られた麻布が奈良朝廷に献納された記録が残っている。
木綿が一般化する以前、つまり鎌倉時代から室町時代にかけては庶民の衣服はふつう麻織物だった。江戸時代に木綿が大衆化すると、全国的な麻織物の需要は減退したが、麻に適した気候風土をもつ越後は、良質の麻織物「越後上布」の産地としてかえって発展した。
小千谷縮の始まりは、江戸時代初期の寛文一〇(一六七〇)年頃である。播州明石から小千谷に移住した堀次郎将俊が、越後上布に、明石縮の緯糸に強撚をかける技法をとり入れ、しぼのある麻縮を織りだしたのが、小千谷縮の始まりといわれている。
江戸時代、小千谷縮は年々品質を向上させ、諸大名をはじめ江戸、京、大阪の庶民の人気を得た。天明五(一七八五)年には小千谷縮および上布の生産量が三十万反を超えたというから、その人気のすごさがうかがえる。
その後、生活習慣等の変化にともない衰退し、現在では、伝統的な技法による小千谷縮および越後上布は無形文化財に指定され、技術の保護をうけている。
*上布 緯糸に並糸を用いる。
*縮 緯糸に強撚糸を用いる。
*明石縮 寛文年間(一六六一〜一六七三)に兵庫県明石で発明された夏の高級着尺地。この技術が西陣を経て新潟県に伝わり、十日町明石の生産につながった。

小千谷紬(おじやつむぎ)

*おり*


産 地:
新潟県小千谷市
特 徴:
小千谷縮の技術をもとに改良された紬の最高級品のひとつ。
軽く着心地がよく、しわになりにくい。素朴さと、手先のぬくもりを感じさせる風合いを持つ。
経糸に生糸を、緯糸に紬糸を用いたものが多く、華やかな色彩の縦絣に経がベールのようにかかって全体のトーンをソフトにしている。なかには経緯糸ともみ手紡ぎ糸で織り上げたものや、玉糸で織り上げたものなどもある。
用 途:
着尺地
変 遷:
越後上布・小千谷縮の伝統を持つこの地方で、紬が織られるようになったのは、初め、農家の副業としてであった。
戦後になって、小千谷縮の伝統と、卓抜した技術を参考にして、紬にもさまざまな改良が加えられ、やがて近代的な感覚を持つ現在の小千谷紬が完成された。

本塩沢(ほんしおざわ)

*おり*


産 地:
新潟県南魚沼郡塩沢町、六日町
特 徴:
こまかい十字絣で端正な模様を織りだした、お召し地ふうの高級絹絣織物。小さい縮しぼがさらりとして、さわやかで着ごこちがよい。
用 途:
夏の着尺地。
変 遷:
小千谷とともに麻織物の生産地として有名だった塩沢地方では、大正時代に麻織物の需要が少なくなると、越後縮の手づくり風合いを絹織物に応用しようとさまざまな技術の導入を行った。具体的には結城紬の技法の導入、京都西陣のお召し技術の導入、地機から高機への切り換えなどである。そうした努力のすえ、大正中期にできあがったのが、本塩沢の前身の塩沢お召しである。
絣糸を染める方法もくびりから板締めになり、現在もすべて手機で織られている。
戦前は製品のほとんどが男物で、色は藍、茶、黒、白の濃淡でできあがっていたが、現在は女物のほうが多く、赤系統の色も用いられている。

越後マンガン絣 (えちごまんがんがすり)

*そめ*


産 地:
新潟県見附市
特 徴:
織絣と区別がつかないほど精巧な染絣。白絣がおもで、夏の着尺地に用いられている。
変 遷:
大正四(一九一六)年、見附市に住む矢島丑松がマンガン化合物を染色に利用、マンガン絣を発明した。
大正末期から昭和初期にかけては他地域にもにこの技術が導入され絹織物に応用されたが、夏の着物の需要の減少から、現在では一機業場で生産されているばかりである。
染色法:
*マンガン染をした麻糸、あるいは綿糸を用いて織りあげる。
*模様型紙と塩化アニリン糊を用いて型置き、捺染する。
*乾燥させたのち、亜硫酸ソーダ液に浸す。捺染した部分のみが残り、ほかは脱色して、絣状になる。

福光麻布(ふくみつあさふ)

*おり*


産 地:
富山県西砺波郡福光町
特 徴:
苧績をすべて手作業で行い、居座機または高機で手織した麻織物。
用 途:
法衣類、茶巾、幕、蚊帳、畳縁。
変 遷:
福光地方で麻布が初めて織られたのは延暦一三(七九四)年といわれる。天正年間(一五七三〜一五九二)から慶長年間(一五九六〜一六一五)にかけては、加賀藩の奨励により布縮緬、紋布など多くの種類の福光麻布がさかんに生産され、八講布、呉郎丸布、川上布などと呼ばれた。
昭和四十年代まではさかんに生産されたが、現在は少なくなっている。

能登上布(のとじょうふ)

*おり*


産 地:
石川県鹿島郡鹿西町、羽咋市
特 徴:
細い麻糸を用いた手織の織物で、さらりとした肌触りと清涼感がある。絣の染色には櫛押捺染(糸をくくるかわりに櫛で糸を捺染する方法。丈夫な生地になる)、丸型捺染、板締め、型紙捺染の四種類の方法が用いられる。
上布とは、上等な麻織物の意味である。
用 途:
夏の高級着尺地。
変 遷:
能登上布は二千年の歴史をもつ麻織物といわれ、大和朝廷にも献上していたと伝えられている。
能登地方は古くから麻や桑の栽培がさかんで、平安時代初期には、能登の麻糸が調として納められていた。
織り継がれてきた麻布が能登上布として世に出るのは、江戸時代の文化一一(一八一四)年、河合与三右衛門が近江から職工を招き、土地の職人たちに近江の高度な技術を習得させてからである。その後、品質改良の成果もあり、越後縮にも劣らぬものが生産され、近江商人の手を経て市場に送られた。当時は能登縮、徳丸縮といった。
しかし、昭和三〇年以降、その需要は減少している。
平上布と縮上布があり、本絣(経緯絣)、緯総絣、紺絣、白絣などがつくられている。
また、男物、女物の別によって絣技法や色が使い分けられている。

小松綸子(こまつりんず)

*そめ*


産 地:
石川県小松市
特 徴:
なめらかで光沢がある絹織物。
繻子織の変化組織で、糸の組み合わせ方によりさまざまな紋様を織りだすことができる。
用 途:
着尺地、羽尺地、帯地。
変 遷:
この地域は古くから絹の名産地として知られ、聖武天皇(在位七二四〜七四九)の頃に「加賀絹」という平絹が朝廷に納められた記録がある。また、室町時代には将軍家に献上され、加賀絹の名は高まった。
江戸時代には、藩主・前田利常の保護のもとで、絹や羽二重の生産がさかんになった。また、利常により寛永一四(一六三七)年に設けられた絹造会所が、製品の品質の検査、向上にあたった。
明治時代にはドビー機、バッタン機、ジャガード機が導入され、紋八端、紋平絹、紋羽二重などさまざまな紋織物が生産された。
綸子が初めて織りだされたのは大正年間で、以後、綸子の一大産地となっている。

牛首紬(うしくびつむぎ)

*おり*


産 地:
石川県石川郡白峰村
特 徴:
白紬と縞紬のある絹織物。自家用の座繰り糸を手機で織ってつくる。
釘を引っかけても破れるどころか釘を抜いてしまうほど丈夫な布地であることから「釘抜き紬」とも呼ばれる。
用 途:
着尺地、コート地、帯地、ネクタイ、袋物等。
変 遷:
白峰地方は、古くから養蚕がさかんで、すぐれた座繰り製糸技術をもつ生糸の産地だった。
牛首紬の起源は平治の乱(一一五九)後にさかのぼるといわれるが、明らかではない。
初めは農家の副業として織られていたが、元禄年間(一六八八〜一七〇四)の頃に牛首紬、白山紬として商品化された。
明治末期に機業化され、大正末期には白紬、縞紬が年間七千反も生産されるほどだったが、昭和に入ると衰退し、現在では二機業で織られるばかりになった。

加賀友禅(かがゆうぜん)

*そめ*


産 地:
石川県金沢市
特 徴:
加賀(金沢)地方で染められる糊置き防染法による文様染。手描染と型染があるが、加賀友禅とはおもに手描染のことをいう。
色彩は多彩。藍、えんじ、黄土、紫、墨の五彩を基本に配色する。色のぼかしは、模様の外側から内側へのぼかし(京友禅はその逆)が多く使われている。
また、木の葉に虫の食った跡を描く「虫食い」に象徴されるように、模様は絵画的である。なお、加賀友禅の模様は京友禅の模様から図案化された。
刺繍、箔置きなどはあまり行わない。
変 遷:
加賀地方に古くから伝わった染技法に、麻布に梅しぶで染める梅染、赤梅染、黒染という無地染があった。
寛文年間(一六六一〜一六七三)に金沢藩の奨励により、これらの手法が加賀絹という絹羽二重に応用され「加賀お国染」と呼ばれる模様染が出現した。当時は防染剤として一陳糊(小麦粉を煮て、糖、消石灰、布海苔液を加えて練ったもの)が用いられていた。模様の糊置きは、この一陳糊を箸や楊枝につけ、糸状に垂れ下がる糊を巧みに操って糊置きをし、彩色後に糊をかき落とすという方法がとられていた。やがて、筒引きによる糊置きや絵模様を描き染める方法が考案されて色絵と呼ばれるようになった。この色絵の技法を家紋に用いたのが色絵紋(加賀紋)である。
享保三(一七一八)年頃、京都の絵師・宮崎友禅齋が金沢に移住し、加賀染に友禅図案を導入したことで、新しい模様染が完成したという。
(注*宮崎友禅齋の生没年は不詳。京都で活躍したのが一六八一〜一七〇三年頃であるから、その後加賀に移住したことは十分に考えられる)。なお、加賀友禅と呼ばれるようになったのは、明治以降である。
染色法染色法:
染色の工程は京友禅と同じで、次の通り。
*白生地仮仕立て→下絵描き→糊置き→色挿し→蒸し→糊伏せ→地染→蒸し→水洗い→仕上げ。
●花嫁暖簾
花嫁暖簾は加賀友禅の源流ともいわれるものである。松竹梅や鶴亀などのめでたい柄を手描で染め、婚礼用などに用いられる。
なお、出雲地方に見られる暖簾や風呂敷は筒描である。

越前墨流し(えちぜんすみながし)

*そめ*


産 地:
福井県武生市
特 徴:
水面に墨汁を落としてできた模様を、紙や布に写し染めたもの。
ふたつと同じ模様を染めることのできない自然の妙が、上品な趣味のお召しものの柄として好まれる。
染生地は越前鳥の子紙のほか、一越縮緬、塩瀬、羽二重などの絹織物。模様は正流、横流し、縦流し、渦巻きの四種類と、その組み合わせで構成される。
用 途:
着尺地、着尺裏地、ネクタイ、壁紙、表装地など。
変 遷:
墨は、推古天皇一八(六一〇)年に高麗の僧・曇徴により伝えられた。筆の伝来も同じく推古天皇(在位五九二〜六二八)の治世中である。墨と筆の伝来後、貴族のあいだでは、墨流しは遊戯として行われた。
越前の墨流しの歴史は仁平元(一一五一)年に始まる。この年、大和の国の人、治左衛門が春日大社の神託をうけ「紅藍墨流し鳥の子紙製法」の秘伝を授かり、その製造に適する清水をもとめて諸国を遍歴、最適の水のある武生に定住し、初代・治左衛門となった。それ以来、墨流しの技法は一子相伝に伝えられ、現在の五十五代目の治左衛門にうけ継がれている。
墨流しはもともと和紙の染色法である。明治維新まで代々の藩主が墨流しを保護してきたが、布染への応用がなされたのは明治になってからのことであった。
染色法:
染料には奈良の墨、正藍、最上紅花を用いる。
筆に含ませた染料を筆先から水面にたらして波紋状の紋様を水面につくり、その紋様を紙や布に写しとる。
三色のときには三本の筆を同時にもって使う行う。