北海道、東北地方


エルム・ユーカラ織(えるむ・ゆーからおり)

*おり*


産 地:
北海道旭川市
特 徴:
北海道特産の羊毛と絹、亜麻を用いて織りあげたホームスパンの一種。
綴織や浮織の技法を用いて、北海道の大自然を絵画のように表した、軽くあたたかな感触のある織物。手仕事で行われ、ひとつの作品に三百近い色が織り込まれている。
用 途:
着物、帯、羽織、コート、ショール、マフラー、ネクタイ、袋物、敷物等、幅広く用いられる。
変 遷:
北海道の特産品羊毛をおもな材料として、昭和三七年頃から生産されるようになった。
ユーカラとはアイヌ語で伝承の意味。

厚司織(あつしおり)

*おり*


産 地:
北海道沙流郡平取町
特 徴:
オヒョウという楡科の樹皮で織られたアイヌの織物で、やわらかく強靭。経糸の先を束ねて杭か柱に結びつけ、一端を腰にくくりつけて座ったまま原始的な戸外機で織っていく。すべて手作業で行う。
織りあげた布地は衽のない肘丈の銅服に仕立てあげ、まず袖口衿から裾廻り、後肩山廻りに無地または黒、茶、ねずみ、白、緑などの縦縞ぐらいに織ったものを、切伏(アップリケ)や刺繍で独特のアイヌの紋様をほどこしたもの。
用 途:
昔は普段着、晴着、頭巾、鉢巻、帯、前掛け、手甲、脚半、刀掛け帯等に用いられたが、現在は観光用儀式のショーの際に着用されたり、土産物として敷物、壁掛け、帯、袋物等がつくられている。
変 遷:
アイヌの文化においては、古くから編袋(サラニップ、テンキ)、背負縄(タラ)、蓆(キナ)などの織物の技術が発達していた。
織機が導入されると、北海道全域に自生するオヒョウがもっとも多く用いられ、厚司織が衣服の主流を占めるようになった。しかし、現在はそのオヒョウも少なくなり、入手が困難になってきているので、おもにシナノキの繊維が使用されている。

津軽こぎん(つがるこぎん)

*おり*


産 地:
青森県弘前市
特 徴:
紺色に染めた麻布に、白い木綿糸で多様な幾何模様を刺縫いしたもの。木綿糸による刺縫いは、衣服の補強と保温もかねている。
藍と白の生むコントラスト、端正な模様の美しさは現代の人々の目を引きつける。
用 途:
昔は働き着が中心だったが、現在は帯地のほか、サイフ、手さげ、ネクタイ、壁掛け、暖簾、ハンドバッグ、名刺入れ、煙草入れ、テーブルセンター等趣味の生活用品として用いられている。
変 遷:
江戸時代初期に農民に許された唯一の衣料は麻であったが、麻の布地は意外に弱いため、藍で染め布地を強め、苧麻の糸で刺して、布地に強さとあたたかさをもたせた。
明治以降は木綿の普及により、刺糸は木綿になり、木綿布にも刺すようになった。
貧しい農民の生みだした知恵の産物である。

南部裂織(なんぶさきおり)

*おり*


産 地:
青森県八戸市
特 徴:
裂いた布を緯糸に織り込んだ厚地の織物。
用 途:
仕事着、野良着、帯地、こたつ掛けなど。
変 遷:
江戸中期に、いたんだ布の再生を南部藩が奨励したことから、経糸に丈夫な麻糸、緯糸に丹念に細かく裂いて紐状にしたボロ布を用いて織ったのが始まり。今日は経糸に木綿糸を使いカラフルなものが多い。

亀田ぜんまい織(かめだぜんまいおり)

*おり*


産 地:
秋田県由利郡岩代町亀田新町
特 徴:
山菜のぜんまいの頭に生えているぜんまい綿と綿花を混紡して織ったもの。防虫性と防水性がある。
用 途:
着尺地、コート地、座布団地。
変 遷:
亀田の織物は、享保二(一七一七)年に越後から亀田に招いた職工が木綿の亀田縞を織ったのが始まりといわれる。
ぜんまい織は、明治二十年代に綿布商人の佐藤雄次郎が考案、商品化したとされる。その後、ぜんまい綿、綿花、白鳥の羽根毛を混ぜて織ったぜんまい白鳥織というめずらしい織物もつくられたが、現在は生産されていない。

秋田八丈(あきたはちじょう)

*おり*


産 地:
秋田県秋田市
特 徴:
渋みのある上品な絹織物。柄はおもに縦縞、格子縞。染料には浜茄子、山つつじなどを用いる。秋田黄八丈ともいわれる。
黄八丈に近い風合いをもち、洗えば洗うほど色つやが増すので、着物に仕立ててから二、三年目にもっとも美しい色を放つといわれる。
染色の別により、鳶八丈、秋田黄八丈、変り八丈がある。
用 途:
着尺地、丹前地。
変 遷:
秋田の織物の歴史は古く、享和年間(一八〇一〜一八〇四)までのあいだに奥州出身の石川滝衛門により確立され、畝織、竜門織、秋田平がつくられていた。
文化年間(一八〇四〜一八一八)、佐竹藩は、藩の殖産を図るために桐生から菱沼甚平を招き、染色、機織の指導にあたらせた。甚平は、指導のかたわら、黄八丈にならって八丈格子を製織、これが秋田絹として有名になった。
さらに甚平は金易右衛門、関喜内らとともに、秋田海岸に自生する浜茄子の根を染料として独自の鳶色をつくりだすことに成功し、八丈が織られるようになった。
秋田八丈は、その優美な色合いから江戸、京都、大阪へと販路を広げ、明治中期には年間六万反を生産するほどの盛業ぶりだったが、その後衰退し、現在ではわずか一機業場のみにより、その伝統は維持されている。
染色法:
染料に用いる植物は以下の通りである。
鳶色(赤茶色) 浜茄子の根。
黄色 刈安、山つつじ、揚梅。
黒 浜茄子とほかの植物染料の混合。ログウッド。
 ◆鳶色染色◆
*媒染 糸を鉄、アルミ、クロム化合物に一昼夜漬け、水洗い脱水する。
*下染 染液(浜茄子の根を七、八時間煮出して得る)を煮立てて、竹棒に通した綛糸を四、五分、振染する。
*本染 麻袋に入れた綛糸を染液に漬けて、攪拌しながら四、五時間煮染める。水洗いをしたのち、石灰水に漬けて発色させる。

鹿角茜染、紫根染(かづのあかねぞめ、しこんぞめ)

*そめ*


産 地:
秋田県鹿角市花輪
特 徴:
染料に茜や紫根を用いて、羽二重、紬、木綿の布地を無地染か絞染にしたもの。
大升、小升、立涌、花輪絞の四種類の紋様がある。
用 途:
着尺地、帯地、袱紗、小物類など。
変 遷:
この地方では奈良時代から、自生の茜や紫根を用いた染色が行われていたが、江戸時代に南部藩の保護下で産業として発展、製品は朝廷や将軍家への献上品として江戸へ送られるまでになった。
明治維新後、藩の保護の消失と化学染料の普及により衰退した。
現在では、原料の入手難、長期におよぶ生産期間などの困難をかかえながらも、伝統ある染技術の伝承に力をそそぐ栗山家の努力により、古代からの茜染、紫根染が守られている。
染色法:
染料には茜の根と紫草の根を用い、媒染剤には錦織木(ハイノキ科の灌木)の灰汁を用いる。
*下染 錦織木の灰汁に生地を浸し天日でかわかす作業を、五月から九月までの天気のよい日に百二十、三十回繰り返し、一年間枯らしておく。
*絞 本染をする前に、手絞または板締めで柄を絞る。
*本染 染液を入れた大きな桶に生地を浸し、イメージ通りの色が出るまで十数回繰り返す。天日乾燥をするため、天気のよい日に行われる。
*仕上げ 絞をほどいて色が落ちつくまでの二〜四年、箪笥などに入れてねかせておく。

白鷹お召し(しらたかおめし)

*おり*


産 地:
山形県西置賜郡白鷹町
特 徴:
結城紬や大島紬と並ぶ手織高級絹織物。 植物染料を用いて、亀甲絣、十字絣などのこまかい子絣柄を板締で染め、高機で織った織物。
経糸に生糸、緯糸の地糸にお召し糸、絣糸に生糸を用いる。お召し糸とは強撚をかけた糸のことで、織りあがりにしぼが立つのが特徴。
用 途:
着尺地。
変 遷:
白鷹地方で伝統的に織られていた米琉(紬)などの技法をもとに研究開発され、昭和四年に小松米蔵氏によって完成されたといわれる。

紅花紬(べにばなつむぎ)

*おり*


産 地:
山形県米沢市
特 徴:
糸を紅花(キク科の二年草)で染色して織った絹織物。紅花には末摘花という別名もある。
変 遷:
紅花はエジプト原産だが、インド、中国経由で日本に伝わったのはかなり古いことである。
最上地方の紅花の栽培は室町時代(一三三八〜一五七三)末期頃に始められたらしい。山形城主・最上義光が移植させたとも、商人がもち込んだともいわれている。
この地方の紅花は、江戸時代には『最上紅花』と呼ばれて染色用、化粧用(京紅)として第一級の名声を得た。紅花の生産量も多く、全国生産量の四、五割を占めたという。しかし、明治になって化学染料の普及により衰退し、太平洋戦争の終了後には、紅花は幻の花となっていた。
昭和二十年代後半から紅花染の復興を志す人々により紅花の栽培、染織の研究がなされ続けた。そして昭和三九年、かつては高級絹布に染めた紅花染を紬織に染めだし、商品化に成功した。
現在では、箴園紅花紬(紅花、藍、胡桃、刈安などの植物染料使用)と、紅花手織紬の二種類が生産されている。
染色法:
*七、八分咲きの頃にに摘みとった紅花を素足で踏んで発酵させたのち、つきつぶしてかわかし、固めて紅花餅をつくる。
*麻袋に入れた紅花餅をぬるま湯に二時間漬けて黄色の液を絞りだす。これを二回繰り返す。(この黄色液は、黄色の染液となる)。
*このあと、紅花餅を炭酸カリウムを溶かしたぬるま湯に漬けて、紅色素を含んだ染液を絞りだす。
*紅花からは紅色と黄色が抽出できるので、これに藍の染料を加えると三原色がそろい、どんな色でもつくりだせることになる。

長井紬(米琉)(ながいつむぎ よねりゅう)

*おり*


産 地:
山形県長井市、米沢市、西置賜郡
特 徴:
絣紬が中心で、絣模様は大柄のものが多い。八丁撚糸を用いた独特の糸づかいと独自の風合いが特徴。
品質や柄が琉球産の絣紬に似ているため「米琉(米沢琉球紬の略称)」とも称される。
用 途:
着尺地、羽尺地。
変 遷:
古くから織物のさかんな土地だったが、養蚕の輸入とともに、それまでの苧麻に変わり紬を織るようになった。
飛躍的な発達を遂げたのは上杉鷹山公(一七五一〜一八二二)の頃で、上杉公は、下級武士の家内職として織物を奨励するとともに、京都、小千谷から織の技術者を、仙台から藍作師を招いて長井紬の改良に力をそそぎ、また、江戸、京都、大阪までの販路を確立した。当時は「置賜紬」と称された。
琉球調の米琉がさかんに織られるようになったのは、江戸末期である。「米琉」の名は、その販売上、商人が明治八年頃につけたものといわれるが、定かではない。明治に入ってから「長井紬」と名称を変更した.明治から大正にかけて好評を博した大島紬の影響をうけ、一時、鳶茶色系の大島調小絣が主流になったが、現在では、紺絣や白絣など多様化している。
染色法 経緯糸とも板締絣加工をし、植物染料のカッチやログウッドで浸染する。

岩手ホームスパン(いわてほーむすぱん)

*おり*


産 地:
岩手県盛岡市
特 徴:
手で紡いだ羊毛を草木染にしたホームスパン。
用 途:
和服地、洋服地、コート地、帯地、ショール、マフラー、ネクタイなど。
変 遷:
明治初期に緬羊の飼育が開始され、イギリス人宣教師に織法を教わったのが始まり。大正から昭和にかけ梅原乙子が生産と普及に尽力、すぐれた製品として県の特産品と認められ、現在に至る。

南部紫紺染、茜染 (なんぶしこんぞめ、あかねぞめ)

*そめ*


産 地:
岩手県盛岡市,下閉伊郡岩泉町,西磐井郡花泉町
特 徴:
紫根や茜を染料として絹や木綿地に染色したもので、紫系が中心の、色彩の美しい縞柄の織物。
後染(布染)の絞と、先染(糸染)の紬がある。手紡ぎの紬糸を紫根などの植物染料で染め、手機(高機)で織る。
糸染は、紫根染で行うために、南部紫根染とも呼ばれる。
用 途:
着尺地、帯地、夜具地、座布団地など。
変 遷:
三百年の歴史をもつ織物。起源は明らかではないが、付近の山野で良質の紫根が採取できることから発達したものと思われる。江戸時代末期頃までは、藩の庇護をうけ南部藩の特産品だった。
江戸時代の寛政年間(一七八九〜一八〇一)に幕府への献上品として用いられたことがきっかけとなり、南部紬の名は世に知られるようになった。縞柄は、その後、京都から技術者を招いたことで誕生した。
現在、布染は盛岡市の藤田家が、糸染は下閉伊郡岩泉町の八重樫家がその伝統を維持している。
しかし、伝統的な岩泉南部紬は、県の無形文化財にも指定されている八重樫フジさん、フキさんが高齢になったために織られていない。
花泉南部紬(西磐井郡花泉町)は、その伝統を継承した小野寺信平氏が現在も織っている。
染色法:
染料は紫草の根と茜の根。媒染剤には錦織木(ハイノキ科の灌木)の灰汁を用いる。
◆後染◆
*布地に青花(ムラサキツユクサの花からとった汁)で下絵を描き、木綿糸で縫い巻絞り、竹巻きなどの手法で絞る。
*染液に浸して染色をしたのち、糸をほどいて湯のしをする。
◆先染◆
*糸を灰汁に浸して天日でかわかす作業を三回、次に豆汁に浸して同じ作業を三回行って下染をしてから一年間枯らしておく。
*本染は染液に五、六回漬けて陰干しし、手機で織る。

南部古代型染(なんぶこだいかたぞめ)

*そめ*


産 地:
岩手県盛岡市
特 徴:
正藍や植物染料(紫紺、茜など)を用いて、木綿や紬に型染をしたもの。南部藩政時代に武士の裃や小袖に染めた型を活かしているのが特徴。深みのある美しさをもつ。
図柄は、小紋、絣、南部竹割(南部家の紋章)など三百種類ほどある。
用 途:
帯地,インテリア
変 遷:
起源は、甲斐国(山梨県)南部郷の染師で、領主南部家の旗指物や陣羽織を染めていた蛭子屋善助にさかのぼる。
南部家は清和源氏の流れをくむ豪族で、三郎光行のとき源頼朝の奥州征伐に従い功をあげ、甲斐から八戸に移住した。善助は、光行の子孫・義光のときにお抱え染師となった。
寛永一〇(一六三三)年に南部藩が盛岡へ移封されたときに、善助の子孫もともに移り住み、南部古代染染元の初代を称した。現在の染元、蛭子屋小野三郎氏は十六代目である。
古代型染は、一枚型での型染が続けられている。型染に用いられる型紙は代々うけ継がれ、当主たちは同時にその型彫り技術もうけ継いできているので、型染の模様は数百年という歴史を感じさせる。
染色法:
おもに正藍を用い、引染(刷毛に染料を含ませ地色を染める方法)する。

仙台平(せんだいひら)

*おり*


産 地:
宮城県仙台市
特 徴:
絹を素材にした、厚地で目のつんだ縞柄地が特徴。
かたい織にもかかわらず感触はやわらかく、上品な光沢がある。
シャッキリとした張りがあり、けっして縦じわがつかない。歩くとさわやかな衣ずれの音がする。
袴地の最高級品で、親子四代はもつという。昔から「袴地なら仙台平」といわれている。
用 途:
男子用袴地、ネクタイ、札入れ、煙草入れなど。
変 遷:
亨保二〇(一七三五)年頃、伊達藩主・伊達吉村が京都西陣から小松弥右衛門を招いて織らせた精好織が始まりといわれる。
武家の服装の一部として大流行したが、戦後、生活の変化により需要が減少し、現在では、仙台平の伝統を守っているのは甲田機業場一軒となっている。

白石紙布(しろいししふ)

*おり*


産 地:
宮城県白石市
特 徴:
和紙を裁ってこより状の糸にしてから、機にかけて織ったもの。
通気性にすぐれ、軽く肌触りがよいうえに丈夫なため、夏の衣料としては最高級の織物。洗濯も可能。
用 途:
夏の衣服地全般に用いられていたが、現在は袋物や小物類に多く使われている。
変 遷:
白石城主・片倉小十郎の所領である白石地方は良質の和紙の産地だった。この白石地方の産物、白石和紙で織ったのが白石紙布である。
白石紙布は初め、城下の武士の内職として存在していたが、伊達藩の献上品として使われるようになってからは品質が向上し、需要も多くなった。
武家のあいだでだけ用いられていたので明治維新後に途絶えてしまったが、のちに佐藤忠太郎が復活させた。戦時中には、繊維不足を補う有効な手段となった。

白石紙子(しろいしかみこ)

*おり*


産 地:
宮城県白石市
特 徴:
和紙製の衣服で紙衣ともいわれ、おもに防寒用として用いられた。
変 遷:
紙子の発祥には、宗教的な色合いが濃い。修行中の仏僧にとって、紙子は都合のよいものだったのである。その理由としては、麻布は風を通すが紙子は風を通さないので火の気のない寺院でもあたたかいこと、絹布のように蚕を殺さずにすむこと、女人の手をわずらわさずにつくれるため戒律にかなっていることなどがあげられる。僧侶たちは反古紙を袈裟に着用していたのである。この伝統は、いまも奈良東大寺二月堂の御水取りの際に垣間見ることができる。
紙子は、僧侶の防寒着や武士の夜陣の際の防寒着として発達し、江戸時代には一般庶民の防寒着や布団の表地として使用されて日本各地で生産されていたが、現在は白石紙子だけが生産されている。
染色法:
楮をすいた和紙に柿渋またはコンニャク糊を塗り、手でもんでやわらかくしてから衣服に仕立てる。
染色にはおもに植物染料を用い、更紗、小紋染がほどこされる。

栗駒正藍染(くりこましょうあいぞめ)

*そめ*


産 地:
宮城県栗駒市
特 徴:
初夏の気温で藍を発酵させる、藍の原始的自然染色法「冷染、正藍染」を用いて染色する。
藍染はふつう、藍瓶を火であたためながら一年を通して染めるが、栗駒正藍染では人工的な保温、加熱をいっさい行わず、五月頃からの気温の自然上昇を利用して木桶に入れた藍を自然発酵させる。そのために「冷染」とも称された。しかし、昭和四一年に「温度を下げるわけではないのに冷染というのは不適当」という理由から「冷染」の名称をとり去り「正藍染」と指定名称を改めた。
栗駒正藍染のもうひとつの特徴としてあげられるのが仕事へのかかわり方である。正藍染では、麻植え、藍の種まき、糸とり、機織、染などのすべての工程が他人の手をわずらわすことなく一貫して行われる。
変 遷:
「冷染、正藍染」の技法の起源は奈良時代とされるが、明らかではない。江戸時代、伊達藩の藍栽培の奨励により、藍が栽培されるようになった。また、農民には絹物の着用が禁止されていたこと、東北地方の気候が綿の栽培に適さないことなどから、この地方では大麻、苧麻、蕁麻などが栽培されていた。そのため、麻布を織り、藍で染めることは祖母から母へ、そして娘へとうけ継がれる女の仕事であった。
昭和三〇年に千葉あやのさん(故人)が重要無形文化財技術保持者に認定されたのも、そうした背景があったからである。あやのさんは、もともと機織にすぐれていたが、千葉家に嫁いでから藍染技法を伝授され、昭和三〇年に人間国宝に指定されたのである。
現在、その技術は娘のよしのさんに伝承されている。
染色法:
正藍染は次のような工程で一貫して行われる。
*麻布 四月に大麻の種子をまく。七月下旬から八月上旬にかけて収穫し、冬季に麻を糸により、高機で織る。
*藍 五月上旬頃苗代に種をまく。刈りとった藍はすぐに葉をしごきとって天日でかわかし手でもむ。これを二、三回繰り返してから俵に詰めて貯蔵する。二月頃、もみ殻とわら束を敷いた土間のうえに莚を重ねて藍床をつくり、水洗いした藍葉を山盛りに積む。積んだ藍葉に莚とわら束をかぶせ三、四日置いておくと藍葉は発酵して熱をもつようになる。一、二週間ごとに藍葉に水をかけ上下を反転させる。これを繰り返して藍葉が熱をもたないようになったら、四月まで置いておく。
四月に藍葉を床から出し、藍葉を臼で餅のようについて十センチ程度の藍玉にし、乾燥させる。藍玉は、乾燥してから栗の実くらいの大きさに割り、保存する。
藍建ては、木桶に藍玉と木炭灰のかたまりと三十五、六度の湯を入れて行う。初めの一週間は毎日湯をそそぎ入れる。一週間ほどすると泡が立ち始めるので、泡の量が多くなったらかき混ぜる。泡の色が濃い紫色になるまでこの作業を繰り返す。藍汁の中央に濃い紫色の泡が立ってくれば、藍汁のできあがりで、染められる状態になったことを意味する。藍がよく発酵するのは五月頃である。
*染色 まず麻布を一度煮て水にさらしてから、麻布一反に、伸子針十二本を張って藍汁に沈める。藍汁の中では布を広げ、三十分ほど浸してから引きあげて風を入れ、発色を促す。これを三回繰り返してから水洗いをし、豆汁を引き、陰干しして乾燥させる。
*木炭灰 薪炭(楢炭)から木灰をとる。炭のかたちをそのまま残した灰のかたまりでなくてはならないという。

会津木綿(あいづもめん)

*おり*


産 地:
福島県会津若松市、河沼郡会津坂下町、耶麻郡塩川町、猪苗代町
特 徴:
素朴な藍染の縞木綿。丈夫で吸湿性がよい。
用 途:
農作業着、普段着、袋物。
変 遷:
この地域では古くから自家用の木綿が織られていたが、商品としての会津木綿の始まりは、寛永二〇(一六四三)年頃に、会津藩主・保科正之が武士の妻女の内職に奨励したことにもとめられる。
明治中期頃に紡績糸が出まわってから商品として本格的に市場に進出した。また、この地域は藍の栽培に適していたために、明治末期から大正にかけて生産の最盛期を迎えた。